緒川の山車
緒川には、3台の美しい御車(おくるま)があります。これを屋形(ヤカタ)と呼んでいます。
そもそもこれは、打ち囃子と、獅子舞が演舞する、伊勢大神楽(いせだいかぐら)という神事に用いられた道具の一つだそうです。この神楽は、移動しながらお札を配り、各地で演舞できるように、道具をもって運ぶ必要がありました。屋形はもともと、長持のように内部に道具をしまって、御神体である獅子頭(ししがしら)を堂の中にしまって大切に運ぶ「獅子館(ししやかた)」というものでした。
これがいつごろ本地域に伝わったかは定かではありませんが、町内に獅子頭が数個残されていることから、その文化自体は江戸時代の前期ごろには伝わっていたように考えられます。3台の屋形はすべて、御堂の真ん中が布で囲われています。一般的な神輿(みこし)などは扉がついていますが、「獅子館」はこの部分に獅子頭を入れるため、布で覆う構造となっています。獅子舞をしない現在に残る、獅子館の名残です。
さて、そもそも担ぐことを前提としていた屋形ですが、道が整備されたからか、飾りが豪華になったからか、いつしか車で曳(ひ)く、という発想に変化してゆきます。「緒川誌(おがわし)」によれば、明治のころ既に車輪をつけて曳いていたようです。
下切の屋形が最も古い(文政10年、1818年のもの)ですが、既に完全に曳くことを前提としたつくりになっています。
北には名古屋型と呼ばれる外輪式の山車、東には知立をはじめとした三河型と呼ばれる仏壇の影響を強く受けた山車、南東の対岸には花飾りや小太鼓の際立つ三河のチャラポコ車、南には亀崎をはじめとする知多型と呼ばれる内輪式の山車、様々な文化の中間地点に位置する緒川地区は、文化の融合地点として独自の発展を遂げてきました。
知多地域に多くの獅子館を保有する地区がありますが、多くは明治、大正期に山車を作ったため、館が使われなくなり、蔵に眠っている事が多いです。しかし緒川地区は、そもそも戦国時代に作られた町のため、道が入り組んでおり大きな山車を通行させるのに向いていなかったこと、また、当時発展していた衣浦沿岸ほど豊かでなかったため、創意工夫して現在の「曳く屋形文化」を定着させました。
ここに獅子館を曳くという形で古くから伝承されている事が、緒川祭禮のひとつの特徴です。
神市場
長持部分は、明治21年ごろ作成とある。上の堂部分は幕末ごろ、名古屋末広町の民間彫刻名人、瀬川治助一門の作か。垂木の金物が特に見事。
平成30年度、大修理が行われ、痛みの激しかった台輪、長持胴周辺の部材を交換する等し、復元された。
新町
内部に昭和期の修理記録がある。上の堂部分は、尾張藩御用達の彫物名人、早瀬長兵衛の作品。漆塗りの部分に蒔絵が施され、雅なもの。
令和元年度に第一期修復を行い、高欄と長持部分の修復を、令和4年度に第二期、上部彫刻の修復、金箔と蒔絵の修復を計画しています。
下切
文政10年(1827年)に造られたもの。古すぎて作者の推定ができない。金箔の上に彩色が施されており、その姿は動く陽明門のごときである。
令和2年度、3年度、大修繕を行い、彫刻と彩色、神殿の幕が見事に復元された。
長持の海馬刺繍の大幕と、雲柄の水引幕は、修繕を検討中。
令和元年度の屋形修理の様子をお伝えします。
令和2年、屋形運搬の様子をお伝えします。
令和二年度の屋形修理が始まります。
修理現場の様子をお伝えします。